空(くう)

こんにちは、苫米地式コーチング認定コーチの森陽(もりあきら)です。

今回は「空(くう)」についてお話します。

空(くう)


仏教の開祖である釈迦の悟りの内容は縁起(えんぎ)です(「縁起」参照)。

縁起とは「全ては関係性で成り立っている」という概念です。

釈迦の死後、ナーガールジュナ(2~3世紀のインド仏教の僧)とツォンカパ(チベットの学僧、1357年~1419年)の二人が縁起を深く研究し、「空(くう)」の思想を生み出しました。

空については苫米地英人氏(以下「苫米地博士」といいます。)が以下の論文で詳しく定義しています。

http://www.tomabechi.jp/EmptinessJapanese.pdf

苫米地博士の定義によれば、空とは包摂半順序latticeの宇宙のtopであるとのこと。

少しかみ砕けば、空とは「有」と「無」を包摂する抽象度が一番高い概念だと言えると思います。

このように空を定義すれば空を理解することは一応可能です。

ただし、苫米地博士は上記論文で空の定義が理解できても空が分かったことにはならないと指摘します。空を分かるためには瞑想修行をする必要があるとしています。

以上を踏まえ、私なりの空の理解を以下にお示しします。

あらゆるものの抽象度を上げると空になりますから、あらゆるものは空だと言えます。

空は「有」も「無」も包摂してしまいますから、あらゆるものは「有る」とも言えるし「無い」とも言えます。

ここから導かれる結論は「縁起」から導かれる結論と同じで

この世に絶対(アプリオリ)はない

ことと

この世は心が作る

です。

この世に絶対(アプリオリ)はないのですから、「○○のように生きるべき」という強制はあり得ません。

また、この世は心が作っているのですから、この世は自分の好きなように作ることができるはずです。

さて、ここで「自分」という存在を考えてみます。

大抵の人は自分が「有る」と何の疑いもなく思っています。

しかし、本当に「有る」と言えるでしょうか?

私を例にすれば、今パソコンに向かってキーボードを打ち込んでいます。私の視野には私のが映っています。私の指は物理的に存在しているように思われます。


しかし、「私の指」とは何でしょうか?よくよく考えていくと、厳密に「これ」と定義することはできません。なぜなら、私の指を構成する有機物は常に入れ替わっているからです。常に「有る」ように感じるだけで、実際のところは爪は伸び続けていますし、代謝もし続けているわけで、「これ」というものは存在しないのです。ただ脳が指だと認識しているだけで「指」なるものが何かを確定させることはできません。

こう考えても、じゃあ一点を切り取れば「有る」ではないかという反論が一応は可能です。

しかし、この反論は的を射ていません。なぜなら、一点を切り取るならば、存在するか存在しないかは分からないからです。これは量子論で明かになっていることです。

とすると、一点を切り取ってすら有るか無いかは分からないということになります。

有るか無いかすら分からないものをただ脳が「有る」と認識しているだけです。

こう考えていくと、人間の脳とは実におおざっぱな認識しか出来ないことを痛感させられます。

おおざっぱに認識して「有る」と思い込んでいるわけです。

さて、私の指は物理空間のお話です。

人間の認知は物理空間のみならず情報空間にまで及びます。

例えば国家という存在です。

多くの人が国家は有ると思い込んで いますが、物理空間に国家が有るわけではありません。国家という存在をあたかも人のように人間の脳が想定しているだけです。

このことは会社にも当てはまります。

国家も会社も法律の世界では「法人」として権利義務の主体となります。つまり法律によって人と「擬制」しているのです。国家も会社も現実には存在しないのは当然の前提です。無いものを「擬制」しているのです。

国家や会社は物理的存在ではありませんが、人間の脳がそれを想定して実際に活動しているので情報空間には有るとも言えます。

次に「民主主義」という概念を考えてみます。

民主主義とは国民による政治のことを言います。王様による政治だと国民にとって過酷な政治を行われがちなのは歴史的事実であり、現在では多くの国が民主主義を採用しています。

では民主主義が有るかと言われれば、物理空間には無いと言わざるを得ません。なぜなら民主主義とは人間の脳内にある概念に過ぎないからです。もっとも人間の脳内に概念として有るなら有ると言えなくもありません。もちろん有るのは情報空間にです。

さらに「親の言うことに従うべき」という観念について考えてみます。

「親の言うことに 従うべき」というのは一つの規範です。「親の言うことに従うべき」という規範を正しいものと信じ、他人に押し付ける人もいます。

しかし、「親の言うことに従うべき」という規範は単なる思い込みかもしれず、少なくとも「親の言うこと」の是非を吟味することなく無条件に従うべしとする規範を共有する人は少数であるはずです。

いずれにせよあらゆる規範は実体として物理空間には存在しておらず、人間の脳の中にのみ観念として存在します。有ると言えば有るし無いと言えば無いのです。

このように考えると物理空間にも情報空間にも存在は有ると言えば有るし無いと言えば無いとわかってきます。

全ての存在は空なのです。

空だからこの世に絶対(アプリオリ)はありません。

空だから人間の認知は全て幻想だと言えます。仮に悟ることが出来たとしても素粒子の動きまで全て正確に把握することなど不可能です。だから人間の認知は全て幻想です。幻想と言えばむなしく聞こえるかもしれませんが、幻想の中に生きているからこそ、自由に幻想を作り出してOKなのです。わざわざ苦しい幻想を作り出す必要はありません。幸せな幻想を作り出せばいいのです。

ですから空を分かることで自由になることができます。

特に日本では情報空間の束縛が強いですから空を分かることには大きな意義があります。

多くの「苦」は情報空間にある幻想に縛られていることに起因しますので、空は苦しみを解き放ってくれます。

苫米地式コーチングは空を大前提として構築されています。

ここまで見てきたように空にはとても重要な意義があります。

しかし、空だけを推し進めていくことはある種の弊害をもたらすことがあります。

空なのだから自由に世界を作ってよいのです。それが自分の内側に有る限り何の問題もありません。

しかし、自由に作り出された世界を他人に押しつけるようになると困ったことが起こります。

極端な話、自由に作り出した世界の論理によって他人の生命を奪うことすら「是」としかねないのです。

自分が自由に世界を作ることができるのと同様に他人も自由に世界を作り出すことができるのです。

「一人一宇宙」参照

ですから、他人の宇宙は他人の宇宙としてしっかりと尊重しなければなりません。他人の生命を奪うことはもってのほかです。

空が分かれば自由に世界を作り出すことができます。

自分が自由に世界を作り出すことができるように、他人も自由に世界を作り出すことができます。だから自分の世界を尊重するのと同じように他人の世界も尊重するのです。

これが幸せな世界の大前提です。

さらに人間はそれぞれが作り出した世界を共有することができます。それぞれの自由意志で世界を共有することはとても素晴らしいことです。人間の脳は他者との世界の共有を求めるからです。

人間はそれぞれが作り出した世界を共有することができ、そして互いの世界が互いの世界に影響を与え合います。

他人の世界によい影響を与えれば自分の世界にもよい影響が返ってきます。

それぞれの世界を尊重し合いながらも、互いの世界が互いの世界に影響を与え合う。

これが空を分かった人間が作り出す人間関係です。

以上を踏まえ、今日から自分と自分の周囲を観察してみてください。

根拠が全くない、しかも苦しい幻想をたくさん発見するはずです。

そんな幻想を発見したら、苦しい幻想を捨てましょう。自分を苦しめているものは幻想だと気づき、そして自由に幸せな幻想を作ればいいのです。

ではどうやって幸せな幻想を作ればいいのでしょうか?

その答えは苫米地式コーチングの中にあります。

苫米地式コーチングの本質のほとんどは苫米地博士の著書に書かれています。

目を開いて苫米地博士の著書を読めば見ることができます。

たとえば、「ゴール設定」一つとっても深く深い意味があることに気がつきます。

とは言うものの、苫米地博士の著者は著しく抽象度が高く、そこにあってもその意味するところをしっかり捉えることは容易ではありません。

そこにあるにも関わらず見ることが出来ない秘密がたくさん隠されています。

どうしても行き詰まったら苫米地博士やその弟子たちに頼ってもよいです。

今回は以上です。

苫米地式コーチング認定コーチの森陽(もりあきら)でした。

(参考文献)

苫米地英人氏著「幻想と覚醒」(三才ブックス)


苫米地英人氏著「もうこれ以上、人間関係で悩まない極意 今こそ「縁起人」として生きろ。」(TAC)


 

 

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