反逆児の魂(こころ)の声

夜の校舎窓ガラス壊してまわった♪

(「尾崎豊、『卒業』」より引用)

こんにちは、森陽(もりあきら)です。

今日は反逆児の魂(こころ)の声を代弁します。

SplitShire / Pixabay

今から約25年前、私が中学生だった頃のお話です。

私の世代は第二次ベビーブームと言われ、子どもの数が多かった時代です。

私が通っていた中学校は一学年11クラスある地域で一番のマンモス校でした。

人が多ければ、いろんな人がいます。

当時の同級生の中には東大に行った人もいれば、反社会的団体の構成員なったと噂される人もいます。

もちろん東大にいくような秀才は少数派ですし、私がいた中学校では勉強ができることは大して自慢にはなりませんでした。というか、むしろ「ある一定層」からのいじめの対象になる恐れが大いにありました。

私もどちらかというと秀才グループでしたから、私にとって「ある一定層」は極めて脅威的な存在だったのです。

 

 

盗んだバイクで走り出す♪

(尾崎豊、『十五の夜』より引用)
私が通っていた中学校での実話です。
あるとき、授業中の中学校のグランドに卒業生が「ぱらりらぱらりら」って音を響かせながらバイクで乗り付けてきました。

あるとき、生徒が教師を鉄パイプで殴打し、教師は腕を骨折しました。

あるとき、生徒が教師に「ぶっ殺すぞ!」とすごみました。教師は職員室へ逃げていきました。

なんとなく想像がつくと思いますが、私が通っていた中学校は「ある一定層」の人たちが幅を利かす社会でした。

「ある一定層」の人たち。そう、いわゆる「ヤンキー」と呼ばれる人たちでした。

映画「ビーバップハイスクール」に出てくるようなヤンキーが実際にたくさんいました。2016年の現在ではほとんど見かけなくなった人たちです。

私にとっては極めて厄介な存在でしたが、身近にいましたので、付き合わざるを得ません。付き合い方を一歩間違えたらもう地獄の学校生活が待っています。

というわけで、嫌な想いもいっぱい味わいつつも、中学校在学中3年間はそれなりに「ヤンキー」君たちとのお付き合いがあったわけです。

私にとって厄介な存在である彼らでしたが、しかし、それでも彼らの主張というか、根っこにある「想い」は分からなくもない部分がありました。

ただ、まだまだ子どもである彼らは(失礼ながら)自分の想いを適切に表現する語彙も論理も持ち合わせていません。勢い、感情を爆発させ、そして暴力に頼ることになってしまいます。

私はいかなる暴力も肯定しませんが、彼らの「想い」も分からなくもないと言いました。

(もちろん、校舎の窓を壊してまわるのは器物損壊罪ですし、盗んだバイクで走り出すのは窃盗罪でありまして、ぜひやめていただきたいのは言うまでもありません。)

私も大人になった現在、むしろ彼らに共感する部分も出てきました。

そこで、今回は「反逆児の魂(こころ)の声」を大人になった私が論理を用いて代弁してみようと思い立った次第です。

 

反逆児の魂(こころ)の声

 

私が中学生だった当時も、そして2016年現在も同じだと思いますが、どうしても日本の学校という場は

人間を一つの型にはめようとする力学

が働きます。

典型的な例は「前ならえ」って今でもやっていることです。

これは苫米地博士が折に触れて指摘されていることですが、なんで「前ならえ」って言われて「前ならえ」しなくちゃいけないのか意味がわかりません。

なぜ「前ならえ」しなくちゃいけないかどなたか説明できますか?

しっかりとした説明をできる人などいないはずです。

これが軍隊ならまだ分かります。

兵士は上官の言うことを無条件に受け容れて実行する必要があるからです。そうじゃなければ戦争を遂行できません。

戦争を遂行するために無批判に上官の命令を聞け!」というのは一応合理性があります。

ただし、これにしても「戦争を遂行するため」という目的それ自体を否定することができますし、「無批判に上官の命令を聞け」というのは論理ではなく、他者の必要性を強制しているにすぎません。

学校現場に視点を戻します。

当たり前のことを指摘するようですが、学校は軍隊ではありません。

であるならば、上官(例えば先生)の言うことを無批判に聞く必要もないはずです。

であるのに、「前ならえ」というおよそ日常生活で意味があるとは思えない行動を「先生が言ったから」という理由だけで生徒に強制するとは一体どういうつもりでしょうか?

生徒だって、最初は疑問に思うはずです。なんでそんなことしなくちゃいけないんだと。でも、繰り返すうちに次第にそんなものかと思うようになってしまいます。「前ならえ」と言っている教師自身がそう思っているようにです!

ここで、あるヤンキー君が反発して「前ならえ」という号令がかかったときに後ろを向いたらどうなるでしょうか?

ただ後ろを向いただけです。

それでも、そのヤンキー君は「反逆児」として扱われ、教師からお説教されるはずです。

なんでお前はみんなと同じようにしないんだ

と。

ここでヤンキー君はどうするでしょうかね。

今の私が生徒の立場だったら上記の論理で教師に反論します。嫌な生徒と思われるかもしれませんが、論理では圧倒的に私の勝ちです(本当は論理でしっかり反論してくる生徒を「嫌な生徒」と感じるのはその教師が未熟だからです。)。

教師は私に論理で反論することができない代わりに、私を反逆児として扱うでしょう。きっと体育の成績は良い評価は望めません。

極端な例に思われるかもしれませんが、日本の学校には至る所にこのような側面があります。

制服だってその一つです。

なんで制服着なくちゃいけないのでしょうか?

「そんなの当然」と何も疑問に思わない方は自らの思考停止を疑ってみる必要があります。

今はおしゃれな制服もあるのかもしれませんが、私が中学生だったころの制服はほとんどがダサかったです。しかも、ダサい制服を加工して着ること(ボンタンとかですけど。女子だったら当時はスカートを短くするのが流行っていました。さらに前の時代は逆に超ロングスカートが流行っていました。)は反逆とみなされました。

制服制度が許容される唯一の根拠は「生徒の中での貧富の差を見えないようにすること」です。

戦後まもなくの貧しい時代であれば、貧しい家の子どもはまともな服を着ることができなかったはずです。そして、中学校にボロボロな服を着て行けば、まだ精神的に未成熟な子どもであれば差別意識を持ってしまうかもしれません。だから、少なくとも服装上貧富の差を見えなくするために、貧しい家の子どももお金持ちの家の子どもも同じものを着ましょうというのは一定の合理性があります。

しかし、現在ではその合理性を支える社会状況があると言えるでしょうか?

ユニクロなどで安くて品質の良い服はいくらでも手に入ります。わざわざ何万円もするダサい制服を強制的に購入させる必要性が一体どれくらあるのでしょうか?むしろ制服代が家計を圧迫している事実が見えないですか?

制服制度を今なお続ける理由は私には制服業者を儲けさせるくらいしか思い浮かびません。しかし、業者を儲けさせるために制服を強制するなんてナンセンスです。

なら、やめちゃえばいいんです。

いや、やめなくても、選択できるようにすればいい。制服に「萌(も)える」人もいますし、かわいい制服なら逆に自分をブランド化できるかもしれないし、学ランがかっこいいと思ったら自由にいかようにも改造して着ればいい。でも強制するのはよくないです。服装の自由を奪っているからです。

服装だって立派な自己表現であり、そして服装に頓着しないことまで含めて個性です。

であるのに画一的な制服を強制するのは生徒に「個性を表現するな」ということです。個性を表現することが反逆だとするならそれはもう意味不明としか言いようがありません。

これが一定の約束のもとに集まっている会社組織で、ある特定の条件をみたす場合は話が 違ってきます。

服装は表現であるので、会社にも表現があるからです。

例えば、高級ブランド「ルイヴィトン」の店員さんは厳しいドレスコードがあります。服装はもちろん、細かな化粧の仕方まで会社のルールがあるそうです。なぜそのようなことをするかと言うのは明らかです。「ルイヴィトン」というブランドイメージを守るためです。「ルイヴィトン」には「ルイヴィトン」という表現があり、個々の店員の服装もその一部です。店員からすれば服装の自由が制限されていることになりますが、服装も契約上の義務でりますので、履行するのは当然です。嫌なら辞めればいいだけです。

これは銀行員や証券会社の社員がきちんとしたスーツを着るのも同じです。ボロボロの服を着ている人に何億円も預けようとは誰も思わないからです。

これに対し、少なくとも義務教育では、学校と生徒の関係は契約ではありません。学校にも表現があるのかもしれませんが、それを生徒に強制することはできないはずです。仮に強制が許されるなら、その前提は「離脱の自由」があることですが、義務教育の学校にはそれが事実上ありませんので、やはり生徒に強制することは許されないというべきです。

というわけで、私が中学校の生徒で教師から服装を叱責されたら上記の論理で反論します。きっと嫌な生徒と思われるに違いありませんが、教師に好かれるか嫌われるかは全くの別問題です。

(実際に「制服」についてディベートをしたら論理はもっと広く深くなっていきますが、長くなりすぎますので、このくらいにしておきます。)

以上、ほんの少しですが、反逆児の魂(こころ)の声を代弁してみました。

論理で正面から闘えば、意外と反逆児に分があることが伝わってくれたらいいなと思います。

 

画一性の押し付けはナンセンス

 

「前ならえ」の例と「制服」の例を出しましたが、要は画一性を押し付けるのはナンセンスだということです。

人にそれぞれ個性があり、学校という「教育」の場はその「個性を尊重する」のが本来の姿ではないですか?

もちろん、他の生徒や教師に害悪を及ぼすことは認められませんが、「前ならえ」を拒否したり「制服を改造」することが誰かに害悪を及ぼすとはとても思えません。

画一性の押し付け」は結局のところ、支配しやすい人間を作りたいからだと思えてなりません。

理不尽に反抗せず、黙って「上」の言うことを聞く人間を作りたいのです。

正面から「上の言うことを黙って聞く人間」を作っているのだと認める教師はいないでしょうが、しかし、結果そうなっています。

昨今、「ブラック企業」なる言葉が流行ですが、教育現場が「ブラック企業」に従順な人材を作り出していないか、今一度思いをはせていただきたいと願います。

ではでは。

森陽でした。

ハピリプにご興味がありましたら、ぜひ「サイトマップ」をご覧いただき、気になる記事どれでも構いませんので、読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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森 陽 について

森陽(もりあきら)。苫米地式コーチング認定コーチ、作曲家。 正面から真剣に本当に役に立つ情報を発信しています。 ハピリプがあなたの幸せにほんの少しでも貢献できたらとても嬉しい。
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